✨ 南方熊楠生誕150周年記念

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✨ 南方熊楠生誕150周年記念

幼少年期(慶応3年~明治16年)

慶応3年(1867年)に熊楠が生まれる。

熊楠は、岩井屋という酒屋の息子津村多賀三郎から『和漢三才図会』を借り、数年がかりで105巻を写し取る。

いまに残る少年時代の写本には『本草網目』、『大和本草』、『全躰新論図』、それにある日の新聞をまるごと写し取った『和歌山新聞紙摘』がある。

12歳で和歌山中学に入学してからは、熊楠は鳥山啓の薫陶を受けて、博物学の才能を伸ばしていった。
特に、13歳の時に書き上げた『動物学』は「英国諸書を参校し漢書倭書を比て」、つまり英語の本を参考にして漢文や日本文の本と見比べながら作った自作の教科書である。

東京修学時代(明治16年~明治19年)

明治16年、上京した熊楠は、神田の共立学校(現在の開成学校)に入学。
1年後、大学予備門(現在の東京大学教養学部)に入学。

「授業など心にとめず、ひたすら上野図書館に通い、思うままに和漢洋の書物を読みたり」という生活で、図書館などで筆写したノートは、学校の課外に書きつける意味から「課余随筆」と名付けられ、この名での筆写は後の渡米後も続く。

予備門同級生の秋山真之や正岡子規なども寄席で唄われる奥州仙台節を夢中になって
授業に身を入れなかったむくいからか、熊楠は中間試験で落第が決まり、予備門を明治19年に退学、故郷和歌山に帰った。

在米時代(明治20年~明治25年)

大学予備門を退学した熊楠は、進化論など西洋の最新の科学思想を学ぶために渡米。

アメリカに着いた熊楠はまず、サンフランシスコでパシフィック・ビジネス・カレッジという商業学校に入学し、半年間この商業学校に通った後、ミシガン州に移動し、今度はランシングにある州立農学校に入学。

熊楠はこの環境の中で、西洋思想と近代科学の方法論を独学で学んでいった。
また、さまざまな種類の植物採集をおこなって、植物採集のために単身、フロリダ、キューバに赴く。

その結果、ギアレクタ・クバーナという地衣類を発見し、これはカルキンスの手からオランダの植物学者ニランデルに送られて新種と認められる。

熊楠が、次に目指したのは大英帝国の首都ロンドンで、1892年にニューヨークを経由して大西洋を渡る。

在英時代(明治25年~明治33年)

在英7年余、その大半は大英博物館での読書と筆写に明けくれ、当時のノート「ロンドン抜書」52冊、1万800ページを成した。

1893年に大英博物館副館長格であったフランクスに見出された熊楠は、その助手のリードに日本語や中国語に関する助言を依頼されようになった。

熊楠は処女作の「東洋の星座」を皮切りに、当時科学雑誌としての権威を高めつつあった『ネイチャー』誌にたびたび投稿し、東洋にも固有の科学思想があったことを紹介し続ける。

熊楠の『ネイチャー』掲載論文は生涯で51本に上るが、これは同誌の歴代の投稿者の中でも単著としては最高記録であると言われている。

このロンドン時代には、熊楠はさまざまな交友関係にも恵まれ、大英博物館のダグラスから中国人青年の孫文を紹介され親交を深める。

熊楠は33歳の時、1900年9月に帰国の途につく。

昭和天皇へ初めて粘菌標本を進献

南方熊楠が昭和天皇へ初めて粘菌標本を進献したのは大正15年11月10日のことで、熊楠が37属90点を選び、表啓文を添えて進献した。

昭和天皇の南紀行幸が話題になったのは昭和4年3月5日、お忍びで熊楠邸を訪れ、神島に渡った。

6月1日、熊楠はこの日、フロックコートを着て神島に向かい、その後、お召艦で秘蔵の収集品をご覧に入れた。
昭和天皇は、タバコの空き箱や古新聞にくるまれたそれらの標本を楽しまれ、その時、献上の粘菌110点を大きなキャラメルのボール箱11個につめて持参したことは、いまでも語り草になっている。


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